はーい(^O^)/Ulalaです!今日は、フランス編、後編です!
フランス編、前編では、18世紀~19世紀、パリなどの都会に住んでいた人は、その階層もほとんど子供を乳母に預けていたことを書きました。
しかし、自宅に乳母が住み込み、子供の面倒を見ている場合はほとんど問題はありませんが、実は、乳母の自宅で面倒を見てもらう里子の場合は、かなりの問題があったのです。
それは、里子に出すと、子供の死亡率があがるということ。
里子に出すと異常なくらい子供の死亡率が上昇した
パリから、乳母に託すために里子に出した場合の死亡率、1875年の調査では、な、なんと、
71%!!
要するに、里子に出すと、子供はほとんど生きて帰ってこなかったということです。
亡くなる理由としては、
まずは里親のとこまでいく旅が過酷だった
里親の家まで行く道中が過酷でした。その道中で、季節によって5%から10%が亡くなったのです。
特に、虚弱な子はすぐに亡くなったようです。
しかしそれだけではありません。
道中の人為的ミスも
道中の人為的ミスも多かったようです。
ある周旋屋は小さな馬車で赤ん坊を六人運んでいるうち、眠ってしまい、一人の赤ん坊が落ちて、車輪の下敷きになって死んだことに気付かなかった。ある仲介人は七人の赤ん坊を預かったが、一人なくしてしまい、その子がどうなったのか、だれにもわからなかった。また、三人の赤ん坊を預かったある老女は、子どもたちをどこへ連れていくべきかを忘れてしまった。
(母性という神話 p109)
その他にも、乳母が眠ってしまい、子供を窒息死させていることもあります。
次に、乳母の問題
乳母の質が何よりも大きな影響を与えました。
ファイ゠サロワの引用している一八一九年当時の『医学事典』には、次のような記述がある。
「そこでは、見るからに汚らしい姿形の年老いた女に出会うことも稀ではなかった。乳房はしなびていて、子供はろくな乳も与えてもらえない。なかには、この乳母の仕事を二、三十年も前から続けている者さえいる。言葉は乱雑で、態度は粗野ときているから、こんな乳母に委ねられた子供がどうなってしまうのか、その運命に対して、強い警告を発せざるをえない。さらにいうなら、ここでは、乳母の汚れた乳を吸ったために梅毒に感染した不幸な子供にも相当の割合でお目にかかるのである」 (職業別 パリ風俗)
また、この当時は、乳児服などなく、子供をぐるぐる巻きにしてミノムシ状態にして寝かしておくのが普通でした。そして作業するときは、そのまま木などにつるしておいた場合もあります。農民なので、子供を預かりつつも農作業を行っていたのです。
そのために、農作業が終わったころには、汚物にまみれた中に長時間居た状態だったり、虫にさされてひどい状態になっていた子供もいたのです。
自分で育てる方がかなり死亡率は低かった
しかし、親が自分で子供を育てた場合は、生存率が高かったそうです。
そのため、里子に出すお金がなく、自分で子供を育てていた貧困層の子供の死亡率は低かったという皮肉。
パリではありませんが、ルーアンという都市の場合、1777年から89年までの間に里子に出された子どもの死亡率は38.1%でしたが、これに対して、母親のもとで育った子どもの死亡率は18.7%。
また、絹産業がさかんで働く女性が多かったリヨンでは、1785年から1788年まで 自分で育てている子供が1年以内に亡くなるのは16%のみ。
しかし、「リヨン市民たちは、ブルジョワも職工も、自分たちの子どもの3分の2が乳母のもとで失っている」と医師が証言しており、里子に出すと66%の子供が亡くなったということです。
里子に出すことは、ほぼ、子供が死ぬことが分かっているのに、なぜ、都会の親は、子供を里子に出したのでしょうか?
子供を自分の手で育てなかった、その理由とは?
死亡率が高いのに里子に出したのは、こういった理由からでした。
第2に、教会で堕胎は禁じされていた。
第3に、ブルジョア層では、夫に絶対的に従うため。庶民は働くため。
避妊など、ほぼできない時代だったので、子供はすぐにできるものという感覚があったようです。
また、堕胎は禁じられていたので、ほおっておくとものすごい数の子供に囲まれることになりました。
このため、子供に思い入れが少ない人が多かったのです。
また、ブルジョア層の女性の務めは、夫と共にサロンに出席すること。夫に尽くすこと。夫の指示に従うこと。この当時の既婚女性にとって重要だったのは「妻」であることだったのです。
↓こちらにも書きましたが、ナポレオンの作った民法でも、夫に従うことをが決められていました。
そのため、子供の声で夫の安眠を妨害したり、子供の世話に手間を取られて夫の世話をおろそかにすることは、家を追い出されるなど、自分の身を危険にさらすことに。
また、労働層は単純に、自分が働かないと食べていけなかったため、子供に構っている暇はなかったのです。
つまり、自分が生き残ることに必死だったということ。
日本であったら子供ができても堕胎の選択肢が取れますが、自分が生き残らなければいけないのに、キリスト教では堕胎は禁止されていたので産むしかなかったのです。
そこで『母性という神話』のバダンテールが説明するには、
里子に出すというのは、胸を張って子供を厄介払いする方法だったということ。
つまり、死ぬことも想定して里子に出していたというのです。
ようするに、生存本能を発揮しなくてはいけない環境では、母性本能は弱くなる。
自分の生命が危うい時は、親は子供を切り捨て自分を守ることの方が大切になってきます。
それが生存本能。
妻という形態であろうと、労働という形態であろうと、自分が生き残るために働かなくてはいけなかった女性たち。
そんな状態では、十分に子供を面倒みることはできないのです。
ルソーが書いた教育書「エミール」、母性論が活発になってくる
このように、母親が自分の手でそだてると、子供が生き残る率が高いことがわかってきていた当時、母性論を訴える人たちが増えました。
ちなみに、この時代よりも発達した20世紀に入ったベルギーのデータですが、親元か乳母か、母乳か哺乳瓶かの育て方の違いでその生存率を調べたところ、親元で母乳で育てた場合が死亡するのが13%で一番生存率が高いことがわかります。乳母に里子にだされるだけで、生存率が下がる時代は結構ながく続いていたのです。
死亡率
母乳で親元 13%
哺乳瓶で親元 32%
母乳で乳母 50%
哺乳瓶で乳母 65%
Statistiques citée par le Dr A.Delcourt dans “la Patrie belge – 1830-1930”, éditions du Soir, Bruxelles, 1930, p. 286
こういった母性論が唱えられた時代は、産業革命、植民地政策をとる中で「人口を増やせ」という方向になってきたのが大きかったかもしれません。
またこの時期は、産業革命によってブルジョア階級において「専業主婦が可能な女性」の層が増えたこともあります。
そんな中で、1762年に出版された、ルソーの『エミール』は注目を浴びました。
『エミール』は、主人公エミールの物語を通して、当時のフランス特権階級の教育のゆがみを批判し、児童の本性を尊重して自然な成長を促すことが教育の根本であることを説いている本です。
しかしながらこの思想がすぐに広まったわけではありません。当時でもルソーが書いたように子供は子供と認識して教育をしている家庭も多少はありましたがそれは極少数派で、まだまだ子供をいつくしむ女性をバカにする人もいたようです。
また、同時期に田舎の乳母の間で梅毒が流行して乳母をよんだり、里子に出すのをためらう人ができたり、産業革命の影響で労働階級でも専業主婦が増えたことにより、18世紀中ごろまでにフランスでもようやく子供を自分の手で育てようという人が増えていき、19世紀末までに徐々に庶民にも定着していきました。
仕事をしなくてもよい専業主婦が増加したことで、子供もようやく、多少は安泰の日々が送れるようになったのです。
しかしながら、その後、働くことがよいことだとし、専業主婦は奴隷だなどと言い始めるのですが、それはこの後まだまだ先のこととなります。
「里子が全盛期だったフランスの18世紀~19世紀」後編まとめ
・避妊などができない状態でどんどん生まれる子供を、胸を張って子供を厄介払いする方法だった
・それもこれも、女性が生存するために働かなければならなかったから子供を構ってられなかった
・専業主婦が増えることで、ようやく子供を自分で育てるという子供の生存率が高い方法で育てる親が増えた。
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