フランスに居てめんどくさいのが、
フランス人が議論好き/(-_-)\ってこと
何事も、寡黙に~、穏便に~過ごしていたい日本人にとっては、悩みの種になりかねません。
でも、フランスに住む限り避けきれない「議論」の輪
どうすればいいんだ~~ ヽ( ゚д゚)ノ
常に反論の言葉が返ってくるフランス人
子供の頃から物事に対して、反対の意見や賛成の意見などを積極的に話すことを、
学校で教えられ、日常で実践してきたせいでしょうか。
フランス人は日常でも、議論をふっかけてきます。
フランス人にとって何らかの意見に対して言葉をぶつけてくることは、
まさに反射的な行動
普通の母親同士の会話の中でも、重要度の大小はありますが議論は避けられません。
例えば、些細なことを話しているつもりでも・・
例1 「そうそう、この前うちの子供が〇〇で賞をもらったのよ~♪」 |
こんな、母親同士だったらよくある会話の光景。日本だったら、
「まあ、すごいわね~」
ぐらいの言葉で片付いている場面じゃないでしょうか?
でも、結構な頻度で、フランス人ママがはこう答えているのを聞きます。
「お子さん自身、〇〇のことを本当に好きだからやってるの?(真顔)」 |
ニコニコと相槌を打って和やかに収まるはずが、そんな質問で返されると最初は戸惑ってしまいます。
おまけに質問されたら、2,3秒の間で返答することがベターなのだとか(汗)
「(´△`) えっ?じゃあ、あなたのところは嫌がる子供を強制的にやらせてるの?」
なんてことを思って、
こんな、人を非難するような内容、それも質問を質問で返すことを言っていいのだろうか?
と返答に躊躇してしまうと返事するタイミングが取れなくなります。
フランス人にとっては、返答に困っているその「沈黙」の方が印象が悪いらしい(汗)
何も答えないことは、否定形に受け取られるそうです。(個人にもよりますが)
なので、何も答えないよりも
思ったこともスパッと口に出した方がいい。
そして、やはりポジティブなことを言う方が印象はいいかもしれません。
「もちろんよ(キッパリ)。子供は〇〇を自分でやりたいと始めて、そこからすごいモチベーションで。。etc,etc」
と、そこから自分の出番とばかりに永遠と話し始めるのがフランス人お母様達。
ただ単に、子供自慢を言ってるわけでもなく、これはこれで子供のことを相手に理解してもらうための会話にもなってます。
例2 「あの子すごいわね~やっぱり一番になることは大切よね~」 |
日本でも話題になった「一番がいいか、2番でもいいか問題」
人によって意見は違うものだと思いますし、いろんな答えがありますが、多分日本人だとここで一旦「肯定」をすると思います。
しかし、フランス人はまず「反対の立場」から質問してくることがあります。
「じゃあ、一人だけが一番になったら、一番になれない他のお子さんはどうなるの?」 |
例2に対しても即座になんらかの言葉を答えるべきだけども、こういった内容に答えようと思うと、
普段からいろんなものに対して興味を持って、自分の意見を持つことが必要。
だいたい咄嗟に言葉を出すことすら難しくないですか?即答できるようになるには、確かに訓練が必要ですが、どんな状態でも少しでも何か言えるようにするには、日常からいろんなことに対して自分の中で意見を固めておくことことが大切になってきます。
一般の会話の中で論議する目的
でも、こんなめんどくさい質問をしてくるフランス人も、実は特に明確な答えを持っていない場合も多いです。
もちろん、しっかりした考えを持っている人も居ますが、自分がした質問に対して知識がないことも多いし、ちゃんと答えられないことも多く、反対にこちらがしっかりしたことを言うと、反論する言葉が見つからなくなるのか言葉を濁されることもしばしば。
「一定の議論のルール」にのっとって話して行くことで、会話の中で回答を見つけて口に出しているという印象を受けることもあります。
こういった日常での議論は、
相手を打ち負かすことが目的ではありません
議論することにより、お互いの事をよりよく知ることができ、こういう考え方もあるのかと言うように視野を広げたり、フランス人にとっては、コミュニケーションを図るための方法であり、楽しんでいるだけなのです。
コミュニケーションの一つである「対話」や「会話」の中にはいろんな要素があり、その一つが「議論」であり「討論」でもあると言えます。
フランス人の会話は「議論」したり「討論」する割合が日本人より多いと言うだけで、基本的には他愛の無いおしゃべりにすぎません。なので、そこまで日常で行われる議論を恐れることもないのですが。。。。
本当に困るのは、これがビジネスや政治問題、国際会議など大きな場で議論する場合。
こんな風に日常から反射的に疑問や答えを導くことを習慣付けているフランス人。
それに比べて議論することに慣れていない日本人。
そりゃ、うまく反論するこができず、有利な展開に持っていかれることが多いでしょう。
そこで、疑問に思うのが、
どうして日本では、欧米のように「議論」することが、ビジネス、家庭、学校に幅広く浸透することがなかったのか?
いや、日本人だって、議論しているはず。なのに、どうしてうまくできないのか?
なぜ日本でディベート教育がなされてないのか?
「議論が上手になるのはディベートを勉強すること」とよく言われます。
ディベートの日本語訳は「討論」とされていますが、実際は「ディベート」という言葉の意味は広範囲に渡っています。
「ディベート」の中でも、議論や討論での「論理的に考える思考能力や弁論法」を学ぶためのものは「教育ディベート」と呼ばれているようです。
でも、なぜ、日本の学校教育では「教育ディベート」があまり重要視され無いのだろう?
と思って探してたら、ディベートの歴史について書かれたものを見つけました。
「ディベートの歴史 ー十六世紀~明治時代~大正時代ー」
ここには、日本でディベートが浸透しなかった歴史について書かれています。
福沢諭吉によって西洋式ディベートが広められる明治時代ディベートが根付かなかった理由としては、儒教・仏教の影響、日本語の語法の問題、日本人の同質性、議論を楽しむ習慣の欠如などが挙げられるが、私はここでもう一つだけその理由を挙げてみたい。
明治時代に入り、福沢諭吉によって再度移入されたディベートは、明治中期には隆盛を極め、多数の理論書が出版され、討論会が至る所で行われたにもかかわらず、やはり消失してしまった。
ディベートが根付かなかった理由としては、儒教・仏教の影響、日本語の語法の問題、日本人の同質性、議論を楽しむ習慣の欠如などが挙げられるが、私はここでもう一つだけその理由を挙げてみたい。
それは日本人の柔軟性である。外国のものが日本に導入されたときに、日本人はそれを自分達の文化として、馴染みやすいように変えて、自国のものにしてしまう。これは成功例も多々あるが、ディベートにとっては、その命を奪われるという結果になってしまったのである。
明治十年代に翻訳書が出版され、ディベートの理論、技術、方法が研究され始めた。その後独自の理論書が出版されていくにつれ、ディベートは様変わりしていった。ディベートを、討論にルールを付け加えたものとして実践しだしたのである。その結果ディベートの命ともいうべき「ロジック」を無視するようになってしまった。
そして元々議論で決着をつけるという文化がないため、単純に二つの側に分け、時間内に議論を出し、勝敗を決めるという方法を嫌い、時間にこだわらず、勝敗にこだわらず、立場を変えて中間意見も述べられる討論という方法の方が良いと思うようになってきた。
そのためにはディベートのルールを変え、自分達の都合のよいように方法を変え、その結果としてディベートの外枠だけをとらえ、討論に取り入れてしまった。これではディベートを行う意味がなく、ましてロジックを無視したディベートは、もはやディベートではなく、単なる討論にすぎない。
明治二十年代に西洋のディベートから自立、独自の道を歩み始めた日本のディベートは、その時点で既に命を失っていたのである。西洋のディベートからの自立、日本的なディベートの確立こそ、私が第一回の終わりに述べた大きな落とし穴なのである。
ディベートを自国のものとして、形を変え導入しようとした努力は認められるべきかもしれないが、そのことによってディベートの命が消えてしまったのである。明治二十年、討論が隆盛を迎えたときには、既にディベートは瀕死の重傷を追っていたのである。
debate history
なるほど。
まず、根本的に、
「日本人の議論・討論の方法」と、「西洋ディベートの方法」が違うようです。
「西洋ディベート」は最初に自分の意見を主張し、そこから反対意見や賛成意見を受け、主張があってる、あってないか(勝ち負け)で結論に達します。
それに対して「日本人の議論・討論の方法」は、相手の話を聞いてそれをとりあえず肯定した後、いろんな人が自分の似たような話をしていって、そこで出てきた共通部分が結論となります。
「日本式の討論・議論」とは大きく違う考え方のロジック議論の「西洋ディベート」混合してしまった結果、
結局「西洋ディベート」とは別物を学ぶことになり、重要性が失われてしまった。
その結果、「教育すること」として定着しなかったと理解したら納得できます。
「議論しない」日本人 「議論のルールを知らない」日本人
日本の日常会話で「議論」することがいったいどれだけあるでしょう。
それどころか、
『竜馬は議論しない。
議論などは、よほど重大なときでないかぎり
してはならぬといいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ、
相手の名誉をうばうだけのことである。
通常、人間は議論に負けても
自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、
負けたあと持つのは負けた恨みだけである』
坂本竜馬(竜馬がゆく3 司馬遼太郎 新潮文庫)
勝ち負けを伴う議論には、攻撃要素があるように感じていて、
日常では「議論しない」ことの方が受け入れられているように思えます。
でも、どうして議論を攻撃と受け取るのでしょうか?
議論をしても人の信念や生き方を否定するわけではありません。
このことが理解できてない根底には、
「ロジックと人格は別」
という前提が「日本式の討論・議論」には無い感覚で、
「勝敗」は「攻撃」と受け取る思考になっているのかもしれません。
おまけに「議論すること、学ぶこと」をほんとどの学校であまり積極的ではなく
討論するためのルール学習、訓練の場も少ない。
その結果、今の日本で議論しようと思っても、議論のルールを理解していない人が多く、
「人格・プライベートを攻撃」
「感情論に走る」
など、「勝ち負け」とかそういうレベルではなく「打ち負かす」ことだけを目標にしていて、泥沼になることもしばしば見られます。
それでも、日本の中でその議論方法でもなんとかなるかもしれませんが、
海外に出ると、突然勝手が違ってきます。
外国人の質問、論議に答えられない
国際会議での日本人の討論が、異様に歯がゆく感じる
それもこれも、
西洋ディベートのルール、方法を知らない
日常から訓練していない
ことが元になっていると思うのです。
世界で生きてくために
確かに、海外で生きるためには、英語やフランス語の語学習得は必要です。
語学専門で勉強してきた人はとても話すのが上手な人がいますが、実際の話、それだけでは不十分。
深い知識を元に、ロジックを伴う議論をしたり、こちらの利益、不利益を考えて話をしたりできる能力があるのと、ただ単に語学ができるだけとは別物です。
語学の勉強も大切ですが、語学が本当に必要な時は、有能な通訳に任せることもできる技術でもあります。
それよりももっと大切なことは、
自分の意見を言うことができる論理的思考と弁論の技術を身につけること。
できるとできないでは、自分の立場が大きく変わってくるのは確かです。
ということで、今日からできること。
・西洋ディベートの基礎を理解する。
・常に物事に対して自分の意見を持つ習慣を付ける
・日常での議論も積極的に入って、まず楽しむ
まず、そこからスタートですね♪
その他、参考になるかも知れないリンク
学校で「教育ディベート」をする際に問題になる「勝敗」について
教室ディベートにおいて、判定は不必要だという意見がある。
1 議論や討論に勝敗はなじまない。
2 競技ディベートならともかく、教室ディベートで あえて勝敗を決める必要はない。
という理由がその主たるものであるが、高校国語の授業におけるディベートという前提で、判定の必要性
と、その判定を生徒が行うことの重要性を述べる。一 判定の必要性(1・2の批判に対する反駁)
1について
国語教室におけるディベートの目的は、「真理の追究の方法」を学ぶことであり、その論題における「真理の追究」ではない。
具体的には、ディベートによって、思考の方法を学び、コミュニケーション能力を充実することが目的なのである。
このような目的である以上、どちらがより批判的に、論理的に、創造的に思考していたか、またコミュニケーション責任を果たしていたか、という観点からディベートの試合を判定し、勝敗を決定することは必要である。この判定こそが、生徒を育てていくのである。
2について
ディベートでは、自分の信念を主張するのではなく、
便宜的に分けられた立場で論を展開するものであるから、勝敗をつけることが、その人の信念を否定することにはつながらない。
むしろ、「論と人を分ける」ことを学ぶ意味でも、判定は行わなければならない。
また、試合までの準備を一生懸命にやった生徒ほど、勝敗の判定を知りたがる。その判定が「どちらもよく頑張ったね」では、生徒は納得しない。逆に判定を行わないことで、「よいディベート」を求めるという意識が、生徒の中で高まらないという弊害が生まれる。二 判定を生徒自身が行うことの重要性
審判としての能力、つまり論理の展開を正確に聞き取り、客観的に分析する力を育てることもディベートの目的である。
また、審判を経験し、審判の立場から自分たちのディベートを見つめ直すことで、「よいディベートとは何か」を自分自身で考えるようになるのである。
コメント
明けましておめでとうございます。
非常にすばらしいエントリーありがとうございます。
今突発的に思う点を申し上げます。
1)このエントリーの「フランス」という部分を「ドイツ」に移し替えても全く問題ありません。
2)「議論することにより、お互いの事をよりよく知ることができ、こういう考え方もあるのかと言うように視野を広げたり、フランス人にとっては、コミュニケーションを図るための方法であり、楽しんでいるだけなのです。」これが底なしだと正直疲れます。その場で議論が美しい形で片付いたとしてもそれが、その結果がその議論に参加した者の中で完結しているように感じます。要するに身内的な形で終わっているのではという印象があります。
3)欧米と日本の義務教育過程あるいはそれ移行の高校、大学教育と平行して日本のハイコンテクスト(high context)文化と欧米のローコンテクスト(low context)文化が大きく影響しているともいます。
詳しくはこちらを
http://www.pan-nations.co.jp/column_001_006.html
4)私も議論好きな人間が住むドイツで暮らしているので西洋的な議論方式を身につけようと努力してますが、大学で(私は学生です)セミナーなどで多くの生徒が行き当たりばったりの発言をしていたり、教授の質問に対して思う節を片っ端から言う、というような場面が90%です。中には「あのー、それ今日までに読まれるべき資料に全部載ってますけど。読んでませんね?」と言わざるおえない発言や質問が頻繁にあります。議論するにはまず、テーマが必要であり、それに見合った知識がないと成り立たないと言うのが私の意見です。知識もないのに議論したってその筋の人間ではないので議論の収穫といってもたかが知れているのではないでしょうか?国民として自分の意見が求められる場合は確かに近所や地域の人間と議論は確かに必要だとは思います。
5)確かに日本人の議論の際にプライベートや人格を否定する姿勢はナンセンスだと感じます。
抽象的なチェス(ロジックに基づいた議論)を楽しめるようになれば少なくとも欧米人と論理対戦ができるようになると思います。
とりあえず。
明けましておめでとうございます♪今年もよろしくお願いします(^^)
>教授の質問に対して思う節を片っ端から言う、というような場面が90%です。中には「あのー、それ今日までに読まれるべき資料に全部載ってますけど。読んでませんね?」と言わざるおえない発言や質問が頻繁にあります。
まさに、これフランス人もですよ(笑)彼らはとりあえず、発言することが大事だと思っていると思います。
マジで、どうでもいいこと言うので、こっちはイライラしてしまいますが(笑)
日本学生さんも、フランスでレポートを書くと、フランス人はだ~~ってたくさん書いてあるのに、自分のは少ないと思ってちょっと怖気づいちゃうとか。でも、先生が、フランス人のレポートはどうでもいいことがいっぱい書いてあるけど、日本人のあなたのは中身があると言ってくれるらしい。
確かに、日本人の方が正解な時でも、このフランス人の発言しまくりなところに押されるっていうのは、ありますね。
ロジックな議論展開は、実は、慣れれば日本人も得意分野だと思うんですけどね♪
ハイコンテクスト(high context)文化と欧米のローコンテクスト(low context)文化のリンクありがとうございました。
>1日の会話量を計測したある調査データによると、平均してアメリカ人は日本人の2倍の量を1日に話すそうです。
なるほど~と思ってちょっと笑ってしまいました(笑)
日本人も戦国時代までは論理的だったそうです。
戦国時代にキリスト教のある宣教師が「この真理は永久普遍である」
と言ったらそれを聞いてた日本人に「永久普遍なら、我々は(その真理を)とっくの昔に知ってたはずだ」と突っ込まれて面食らったという記録があるそうです。
南北朝時代の楠正成の戦略も凄く論理的・合理的でしたし。
今でも、日本人は論理的だと思いますよ。ただ、海外の人に対しての方法を知らないだけで。それをクリアーすればまったく問題ないと思うんですよね。
海外とは・・どこですか? アメリカ合衆国ですか、パリですか?、クスコですか?
レイキャビクですか?バンクーバーですか?
海外は、フランスを始めとする欧米が主ですかね。
であれば、その地域にのみ、その論理に基ずいた事柄を発信したほうが
よいのでは?。
どうも、日本を勘違いしてるようだ。論理ってのは一つだと思っている
人がいるようだね。欧米人の良さ、悪さ、は「生半可」でも突撃してくる。
ようするに、勇気と、己のやっていることを知らない「傲慢さ」だね。
歴史は、いつでもそれを証明してるよ。
日本人は、英語を知らないだけさ、多くの日本人は欧米人の多くは
「デモ」、「集会」、「でかいだけの声」、「教養のなさ」は
何となく、分かっている。「またやってるね・・」と。
方法と目的を混同してるってね。
権力の言いなりの方法をとればそれは成就しないさ。
孫子かマキャべリ、そりゃ、孫子の方が100倍賢いね。
日本批判について、・・
日本を管理社会が完成した
姿と言ったものも居た。
、自由と管理
の配分の程度の問題だ。それは、歴史の
知恵さ、具体的に言うと、自我を許す社会
と、自我を潰す社会、の程度の問題なのだ・・
これを程度にしない、二者択一の病に罹っている西洋人、
価値観を押し付ける西洋人、・・この二つを
「同時に逃れている欧米人」は見たことはない。
どんな知性的な人手もね。君たちは、自分、
自分といいながら、「誰かの代表のような意見」
なんだ。ニーチェ曰く、「過去に見た一切の絵」
にしか見えない。こういうふうにいうのは、君らの
「病」が、君ら自身に見えるようにさ。
君ら西洋人は、裏があれば表がある、箱があれば
中身がある・・と思い込む執拗な傾向がある。それは
君ら自身の姿なのさ・・。
日本人が、あなたを「gaikokuji」と呼ぶのは
または、そう「見るのは」、ただ単に、あなたの
「見かけ」が、日本という国において、少数だと
理由に他なりません。その証左として、日本の「田舎」
に行くほど「外国人」になるでしょう。
日本人は本音を言わない?・・欧米外国人旅行者の感想。
だけれども、その「外見」において、すなわち「あなた」に
ついて、「田舎」の人は、また「東京の人」とっても、「外人」に
なるのは、その理由は、単に「金色の髪」の人を、確率論的
に解釈しているからです。「その黄金の髪」をもつ人を,
田舎の人が、旅行者、日本に長くいる人かを、どうやって「瞬時に」
見分けられましょうか?まして、我ら「どんくさい日本人に」
我々は、観光客と長い間在住している人を「見かけ上」区別
できません。しかし、
その見方は日本人の人口の構成比に比例していると思います。
「日本人に成れない」という妙なことにイラついておられる人もいる。
それの「前提には」、「日本人にはこれこれ・・どうこう扱われる」
という妄想があります。日本人には、良い人、悪い人しか区別は
ありません。良い悪いは「善ー悪」と全く関係ありません。
ようするに、日本人自身にもそんなもの
はありませんし、もともと、インターナショナルと言えば驚くかも知れません。アメリカよりもね。
もちろん「外見」で差別はしません、ただ「身なり」では
区別、差別することはあります。必要なことです。しかし「区別」もしませんとは意味が違います。いったい、区別の差異を認めることは必然です。「外人だ」はただの、名詞・形容詞です。ただ「同じように」日本人のように振舞う事ではなく、そのまま外人として振る舞えば、「いつのまにか」日本人です。
外国人のyoutuberたち、に我々は「自己主張が強いわりに、よく発言
できるな・・と思う。ただ我々がそれらを「是正するなら、同化の
強要です、また言いたい放題「アホなこと(すいません)」なこと言って
くれるよなあ・・と思うとき、我らの文化は健全です。
また、フェイスブックや、グーグルさえなければ、・・我々も言いたいこと
を言えるのに・・と多くの日本人が思っています。一々ログインしたり、
パスワードを入力する・・のは、ドンくさい西洋人がするものだと思ったり、
今だ植民地主義を逃れ得ない欧米人の悪癖だと思っています。
「自分で何をしてるかを知っていない」・・これが欧米人の本質であり、
我々、中国などは、それを「最重要ごと」だと思ってることは間違いないでしょう。中国を代弁するなら、中国を非難する前に「己ら(あなたたち)の
傲慢を見よ・・です。ただ、
「ゴッホのテオに宛てた手紙」やニーチェがすべて語っています。解説は述べません。
いつかは分かるでしょう。「素直」「率直」「正直」「誠実」
の意味が・・いつになるでしょう?・。あと100年はかかるかな。
また我々はドゥルーズのような例外的、哲学者に
真の「知性」を見ます。(気取り、見てくれ、パフォーマンスの
国フランスにおいて、そうでない最高の知性が生まれたのですから)。
日本人が、外の国について何も知らない?
日本人ほど、外国の情報にあふれてるところはない、
あふれられて、偽の情報まみれだ。むしろテレビなんぞ見ない方が良い。
nhkは、abc,cnn,bbc,tve,f2,d-zdf、アルジャジーラを
やっていて毎朝見れる、パリ以外、どこの地方がこれらを
見れてる?、オレゴン州の人がこれらを見ているのか?
また見る必要があるのか?ナポリ市民全部これら見れるか?
ごみだらけのナポリで?・・。いい加減なこというでない。イタリアの
お嬢さん。
白人さんは、いろいろ盛り上げて(情報戦)もうすぐ、反撃してくるよ。
例えば、日本人の均質、集団主義、管理社会、自我の弱さ、・・
「言いたいことも言えないで平和に生きるか?」、「言いたいことを
言って戦う社会(かっこよく言うのだ、彼らは」、とにかく白人はおなじみの
やりかたで、日本を非難してくる。日本にいる、外国人ブロガーも使って。
とにかく、白人ども、99.9%はバカだが、あとの1%は賢いので、いつでも警戒するにこしたことはない。褒めてくるやつを警戒することにしているよ。
議論で何か産み出した、
生産した?論理的に正しいからそれが「採用された」?
そんな例がどこにあるんだ。議論していることに酔っている連中は
いったい己の肩の上に乗っているもので考えたことは無いのでは
ないか?欧米人「・・・はこれだ」、日本人「そりゃごもっとも」。
欧米人「・・なぜ反論しない?、yes 、or、 no」、日本人「その前提がおかしいからさ、そもそも、君らは何がしたいんだ・・」。
まあ、機微を知らない欧米人、偏狭の中国人にさえ劣るよ、なぜなら、
何の教育もされてない人の方が正しいってことがあるからさ、。。
掲載されないかも知れないが、外国人(主に欧米人を、または同様の洗脳を受けた人々)
の「滑稽さ」を治すために箇条書きに言おう、
1、「己自身を知る」、「二元論は病気だと知る」、
2、「謙虚の概念を知る(できなくとも努力しよう」
3、「信頼は一夜にして成り立たない」、「おしゃべりと意義ある発言はことなる」
4、「メッキはいつか剥がれる」、「うわべはファッションだけにしよう」。
5、「中身を鍛えよう」、「己の力の確認の金メダルを、金メダルを己の力と混同するな」
6、言葉を弾丸のように発射するのと反比例に、言葉を弾丸のように発射すれば
威力は落ちる」
7、「本をきちんと読もう」、「分からないことは分からない」と言おう。
8、歴史を知ろう。正直に「日本人にはかなわないと言おう」、恥ずかしいことでは
ない、そこから、また始まるのだから。
9、「ワインはたいしたことはない、日本酒の方が1000倍うまいと正直に言おう」
10、そこから、自ずから、すべての答えが出てこよう。
中傷などではない限り、削除しませんから。なんてお返事していいかわかりませんが、興味深いので掲載させていただきますよ。
この項目は、とても好きです。
2、「謙虚の概念を知る(できなくとも努力しよう」
4、「メッキはいつか剥がれる」、「うわべはファッションだけにしよう」。
5、「中身を鍛えよう」、「己の力の確認の金メダルを、金メダルを己の力と混同するな」
7、「本をきちんと読もう」、「分からないことは分からない」と言おう。
9、「ワインはたいしたことはない、日本酒の方が1000倍うまいと正直に言おう」
日本人です。連投してすいません。
「戦国時代にキリスト教のある宣教師が「この真理は永久普遍である」」傲慢な。
ニコラウス・クザーヌス、オッカム、聖トマス、スピノザ、ライプニッツでもそんなことは言わないと思います。ライプニッツは、その「永久普遍」を探していた「途中」なのですから・・。ある程度「常識」だとは思いますが、西洋の要人の戦略では、まず、
宣教師を派遣し、派遣地の人々の思想を「教化」し、次々に部隊(軍隊が最後)が
来て、その土地を治める(陵辱する)といった手順(マニュアル)だったそうです。
そして、そのスペイン、ポルトガル帝国も、ある種の「情報戦」でやられました。
誰に、イギリスにです。彼らは「コロンブス、ピサロ、コルテス」の残虐性を「宣伝」
しました。幾らかは事実だったでしょうが、真実は分かりません。
日本は、韓国、中国にそのような「でっちあげ」をやられています。国連まで犯されています。
従軍慰安婦も、南京大虐殺も、嘘です。南京事件については、GHQ焚書開封によって
明らかにされています。前者は、言わずもがなです。いったい個人を「無理やり」
引っ張ってこれるでしょうか?それをどうして、当の韓国人(当時は日本人領で日本統治化)が
さまたげなかったのでしょう。貧しい韓国人夫婦が己の娘をさしだし、お金をもらっていたのは、普通のことです。韓国の「日本(朝鮮)総督府」が、韓国の無法者を始終取り締まっていたのも当然です。それは梅毒の感染です。朝鮮の治安は、日本政府が
必死になって取り締まっていました。・・イザベラ・バードなどの朝鮮紀行、ジャック・ロンドンなど複数の比較的、冷静な観察を参考にすればいい。
というわけで、はたしてスペインが蛮行をしたのか?というのも本当なのか?という
疑問もまた掘り起こされねばなりませんが、スペイン・ポルトガルの蛮行は、
「俺らー日本人」からしたら、「そうに決まってる」だけども、前項の類推から、
イギリスなどの「情報作戦」=「スペイン、ポルトガル=悪」作戦も検討すべし・・。
です、疲れた。
管理人さんの寛大さに感謝します。
「今でも、日本人は論理的だと思いますよ。ただ、海外の人に対しての方法を知らないだけで。それをクリアーすればまったく問題ないと思うんですよね。」
海外とはどこですか?・・「海外は、フランスを始めとする欧米が主ですかね。」
ふーん、欧米に従えってことですね。お断りします。自分のお国でやってください。
・・いっつもの答えです。他国に口出ししないよう、お願いいたします。自国の
文化で満足していただけるよう・・祈っています。
距離のパトスという言葉があります。賢い人は、他人と適切な距離を
とる感情があるということです。人と人の間には適切な距離が必要です。
僕が思うに、最初の「知らない人」との出会いでは、ゆっくり、慎重に
「適切な」距離を探しながら、その人と付き合います。
賢明な人は、安易に「知らない人」といきなり接しません。また「本音」を
いいません。いきなり人の懐(ふところ)に入る人物は「無礼な人物」です。
・・「建前」には「警戒、興味、」などの「本音」が含まれています。
悪く言えば、その「知らない人」が「どのような人物」か試しています。
欧米の人々は「直接・・物を言う」「または正直に物を言う」・・。そのこと
は、恐らく「多民族」と接してきた結果であろうと思います。多民族との
交渉、話し合いにおいては「はっきり言う、表現する」ことなしに、意志は伝わりません。「以心伝心」の前提は、「既に同じ文化、習慣、規則」の存在です。だから「言わなくとも分かる」は、嘘です。・・とにかく、日本人は、他者と一定の距離を取ります。嫌味に聞こえるかも知れませんが欧米でも、階級の上の方はそうします。
欧米の貴族級の方たちは、決して「本音」をいいません。だからと言って「建前」
だけを言っているのではありません。きつい言い方をすれば、「本音」「建前」を
気にするのは「庶民」たちです。どちらが良いといいかという話ではありません。
「本音」「建前」を気にする人々は、他者に対する接近の仕方が少々が「がさつ」
な傾向があるということです。ざっくり言えば日本人は、庶民からして礼儀を
わきまえている・・そういうことです。
会話中の沈黙・・そこにこそ存在・・がある、からこそ其れをどうこうしようと
思うのでしょう。沈黙をくだらん会話で埋めるのは、理解できます。
だが、その「沈黙」こそ宝なのです。そこに「コミュニーケーション」
とかいう「汚物」を投げるのはいかがなものでしょう?
かつての中国絵画、水墨画はそれは見事でした、ただ、日本の画家達は、その絵画に
「馬一頭が自由に駆け回れるような」白紙の空間を描きました。または(描かなかった)。僕自身、は西洋の人々は、沈黙、白紙、などに「耐えれない」ようです。
それらを「退屈」「苦痛」だと思うらしい。
散々「欧米」に関する批判をしてきました。だから今度は
に主にフランス、ドイツに対する賞賛を提供します。
もとより、網羅的なものではありません、思いついた偉大な人びとです。
まず、哲学・・学問の王様・・・他の分野も、はフランスにある、ドゥルーズ、アガンベン、バディウ、ドイツ哲学を見事に解釈したのはフランス人、マルシアル・ゲルー、コフマン(サラ・コフマン)、ヴェルフリン、ベーダ・アレマン、昨今ではエマニュエル・トッド。
資本に税金を!。G<rのとき、Gは普通の生産(例えば工場で働く人たちの生産)、GDPよりキャピタルゲイン」による生産です。rは要するに株、投資、という額に汗かくことなく設けた利益です。これが、G<Rのとき、格差は拡大するようです。その論証の
ために彼は、膨大な「証拠」を示しました。トッド氏は本当のことを言ったので、メディアに取り上げられません。
詩人的な人へのオマージュ。マラルメ、ランボー、ボードレール、「マラルメ」王様。
ドイツには、ゲーテ、ヘルダリーン、クライスト、「ニーチェ」別格、シラーは
凡庸。・・・。
論理は負けていいよ。類比、類似、類比、対立に沿うからね。論理は「自ら考えてる」
とう錯覚だからね。日本人は、今のままでいいよ。・・疲れる?・・のは「相手に
合わせてるから」、そういうとき「人間万事塞翁が馬」だよん!とかいって、一端休むが良い。いでござる。「お子さん自身、〇〇のことを本当に好きだからやってるの?」と聞かれれば、お子さんにきいてくださいな」というべき。
「じゃあ、一人だけが一番になったら、一番になれない他のお子さんはどうなるの?」
まず、その情況の説明が曖昧なので、情況を説明してください、とかいって、永遠に
問うて、ください、こうやって永遠に問うと、相手を黙らせれます。でも殴られるかもしれません。チェスと囲碁の違いは何だと思います?と問うのもいうのも良いです。
答え、「置くこと」と「置くことにより囲むこと」です。
単包性エキノコックス症は牧羊地帯に好発し、日本においては輸入感染症として認知されている、エキノコックスは、キツネに限らないよ~。お~い、論理的に正確でないよ。
まあキタキツネには気をつけよう。
これだけは言っておきたい。
日本人、議論の内容と、その内容を言った人を一緒にしてしまう。
外国人、特にヨーロッパ人、議論の内容と、議論した人物は別の者と認識する傾向あり。
つまり、はげしく議論した後に、その「相手」と気まずくなる、それは日本人的。
激しく議論した後、何もなかったように、仲良くできる、ヨーロッパ人的。
一長一短、・・。それは何か?というヨーロッパ人、これの前提は
相手が、「他の意図」、「背後の立場」をもたない、中性的なとき
個別な議論に適している。
日本人は、何かを言っているもの「それは誰か?」と問う。
それは、相手が、議論の内容ではなく、議論を「方法」として
使うとき有効。。。例えば、数々の植民地支配、戦争、分割統治
などの「意図」を知らないで、アラブ人が、または黒人が、
ヨーロッパ人の意図を知らないときに使われた。
今では例えば「AIIB」という経済協定に関する場合において、まずは
「中国人」とは誰か?問わないで参加している国は、中国の意図に
巻き込まれている。「何か」と問うものは、土俵の平等を前提している。
熱くなりすぎる人は視野が狭くなりがちで、そもそも論理を相手に丁寧に届けようという姿勢が疎かになりがちであることがこのコメント欄を読んで感じたことです。
仮に論理が正しくとも、相手がその論理を正確に追おうという気持ちを持ってくれないと意味がありません。熱くなりすぎて感情的になった文章や長すぎる文章は読み手に悪印象を与え、論理を伝えることを妨げるものだと思います。
結局は時代の流れに従うしかないよ。欧米的、ニホン的、だけじゃないしね。できまる。
ごめん書けなかった。
「多数決」で決まる。
連投申し訳ない。ただ、私が感じるのは日本人は言葉を大事にし過ぎる気はする。乱れた言葉を使っても良いとかそういことじゃなく、言葉が道具だって言う発想がまだまだ足りない、言葉なんて「捨てるべきもの」じゃない?
日本人でも「中には」ちゃんと議論をできる人もいらっしゃいます。が、そんな人は本当に少ないですね。実際に、それを真摯に実践為されている方が、この社会で「あいつ、なにもんや?」「消してやろう、ふふふ」という目に遭わされているのを非常によく見かけます。日本でガチで議論をするのは自殺行為です。それだけの地位やカリスマを持ってないといけません。つまり、日本ではどうも論理よりそちらの方がかなり強いです。なぜこうなったのかと言うと、恐らく日本人の現状維持嗜好ではないかと思います。元来、この日本は、論理的思考な人間が結構多く眠っているような気がしないでもないのですが、ただ、どうもそれより感情的思考な方々と軋轢を生みやすい気がします。島国だからでしょうか。で、乱時(戦国、幕末、戦後)などは論理的思考の種族のことを切り捨てられる環境ではない、現ナマの実用物や革新力がなくてはならない。でも、平時だと、彼らの言うことを聞かなくてもそれなりになんとかなる。ところが、ここ数十年、日本はその姿勢で着実に地盤沈下を続けながらも、島国であるために何とかなっているように見えやすい。なので、昨今の社会現状になってきているのではないかと思います。議論は不毛な白黒の戦争や、閉じられた組織内の権力ゲーム、とはちがいます。一種のブレーンストーミングです。できれば、日本にもちゃんとした議論をできる環境がもっと汎用されてくるとうれしいです。